櫓(やぐら)は、矢倉や矢蔵とも書き、城を守るのに欠かせない施設の1つです。古くは上写真の吉野ヶ里遺跡でも物見櫓の遺構が発見されており、敵の動きを高いところから察知していました。もちろん、ここから矢を撃って攻撃することも可能。
その後も長らく櫓は、上写真のように簡易な施設として建てられていましたが、戦国時代末期になると、防火と防弾のために厚い土壁が塗られ、屋根に瓦を葺いた、しっかりとした建物へ進化します。復元されたものを除き、現存する櫓は全て、このパターンの建築ですね。では、まずは構造から分類しましょう。
まず平櫓~三重櫓は、屋根の数に注目して分類したもの。平櫓と二重櫓の場合、デザインはそれほど凝っていないことが大半で、城のあちこちに造られても、デザインはおおむね統一されています。これが三重櫓になると、天守閣のような風格も出てきます。実際、火災などで天守を失った城では、三重櫓を天守代用とすることもあります。
代表例としては、弘前城、新発田城、白河小峰城、水戸城、丸亀城など。
少々マニアックになりますが、櫓の中には、1階の平面と2階の平面が同規模のものがあります。これを、
それから、多聞櫓というのもあります。これは、多門櫓とも書きますが、長屋状の櫓のこと。
ざっくり簡単に言うと、石垣の上に建てられた長い建物とでも解釈してください。このうち、天守や櫓と、別の櫓の間を繋ぐように建てられた場合は「
こちらが櫓門と続櫓の例。櫓門があって、さらに写真左手に続櫓がありますね。
ちなみに金沢城の場合は多聞櫓とは呼ばず、「五十間長屋」とストレートに「長屋」と称しています。ちなみに、左の櫓は橋爪門続櫓。あれ?門と続いてないじゃん?と思われるかもしれませんが、本来はこの左に橋爪門二の門という櫓門があり、ここから連続する櫓だったので、続櫓です。
(2013年9月現在、橋爪門二の門は復元工事中)
以上が櫓の代表的な分類ですが、実際には〇〇城二重櫓とは呼ばれず、東櫓とか、月見櫓など、別の名前が付けられて呼ばれることが多くあります。そこで、どういう名前で呼ばれているのかを分類してみたいと思います。なお、( )内は代表例であり、そのほかの城にも同様の名前の櫓があります。
これまで紹介した、平櫓、二重櫓、三重櫓の分類をそのまま名称にしたもののほかに、天秤櫓(彦根城)、菱櫓(金沢城)、折廻櫓(津和野城)、七面櫓(岐阜城)、十四間櫓(熊本城)、十八間櫓(熊本城)、宝形櫓(八代城)、櫛形櫓(磐城平城)など、階層とは別の櫓の形状を名称にした例です。
たとえば菱櫓の場合、櫓が上から見ると菱形になっているものや、十四間櫓の場合は、長さを名称にしたものです。<※1間(けん)=1.82m>
櫓群を数やイロハで順番に名前を付けたもの。一番櫓、二番櫓・・・七番櫓の櫓群(大坂城)や、ルの櫓、ヨの渡櫓などの、イロハの名称で呼んだ櫓群(姫路城)などがあります。
櫓の建つ位置・方位を名称にしたもの。
例えば東西南北を名称に取り入れた、東櫓(土浦城)、東南隅櫓、西南隅櫓、西北隅櫓(名古屋城)や、昔は干支で方位を示すこともあったので、丑寅櫓、辰巳櫓、未申櫓(弘前城)、巽櫓、坤櫓(明石城)など、干支の名称もあります。
また、右櫓、左櫓(宇和島城)という例もあります。
何の目的で櫓を使うか、というもの。
鉄砲櫓、大筒櫓、小銃櫓(犬山城)、銃櫓(松坂城)・・・名前の通りの武器を収蔵した櫓。
太鼓櫓(広島城)・・・時刻や戦いの合図などを発する太鼓を置いた櫓
鐘櫓(福山城)・・・近隣諸村に時の鐘を告げたほか、太鼓も置いて非常時には緊急招集のために叩いた。
月見櫓(岡山城や高松城など)、花見櫓(松坂城)・・・月見、花見をするための櫓。
富士見櫓(江戸城など)・・・富士山を見るための櫓。実質的な天守に名付ける場合があります。
まず、櫓が位置する場所の地名の場合です。
江戸城の場合だと、和田倉櫓、桜田櫓、蓮池櫓、日比谷櫓というのがあります。
それから、津山城の備中櫓の場合、備中国という国名に由来しています。
それから、移築元の地名をつけることがあります。
たとえば、伏見櫓(江戸城、大坂城、尼崎城、福山城など)、宇土櫓(熊本城)などです。伏見櫓は、京都の伏見城から移築されたという意味ですが、伝承である場合が多く、移築の痕跡があるのは福山城ぐらいです。また、宇土櫓についても、実際に宇土城から移築されたものかは不明です。
逸話・伝承などに由来する名称。 馬印櫓(大坂城)・・・馬印は戦場で大将の所在を示したもの。徳川家康が天守に収めていたものが、天守が落雷で焼失。その際に、家臣が東側の櫓に馬印を避難させることに成功したことに由来。ちなみに現存していません。 祈祷櫓(松江城)・・・築城の安全などを祈祷したため。こちらも現存していません。
化粧櫓(姫路城)・・・江戸幕府第2代将軍の徳川秀忠の娘、千姫が姫路藩主の本多忠刻と結婚した際に、化粧料として与えられた10万石で建てたといわれるもの。