最寄駅:JR東京駅/東京メトロ二重橋前駅
天守閣は、徳川家光の時に最大の物が造られたが、明暦の大火で消失。その後、財政難もあって二度と再建されることはなく、現在は天守台だけが残る。
1868(明治1)年4月,明治政府に明けわたされ,10月に江戸城を東京城とあらためて,翌年,皇居となった。とにかく広大な江戸城。散策すると、数多くの門や櫓は残ることに気づかされる他、太田道灌が作った堀も「道灌堀」として残っている。
なお、北の丸の方には高速道路まで存在。余談だが、太田家は掛川城主(静岡県)として、江戸時代も大名となって存続。
(写真・本文:裏辺金好)
江戸城の正門。江戸時代から残る高麗門と、戦災で焼失し、1967(昭和42)年に復元された櫓門から成る
三の丸の隅櫓。なお、写真左奥は富士見櫓。江戸城天守閣の代用として使われ、
関東大震災で倒壊したが復元されている。
1657(明暦3)年の江戸大火による天守閣焼失後、天守台だけは前田家の担当で復興。なお、
元の高さは7間だったが、復興の際には6間と低くなっている。
*1間・・・約1.82m(6尺)
西の丸大手橋を1899(明治22)年に架け替えた石橋と、奥にあるのが二重橋。
現在は宮内庁への出入り口となっている坂下門。1862(文久2)年、
老中の安藤信正が水戸藩浪士などによる襲撃を受けた、坂下門外の変の舞台でもあります。
二重櫓。左右に多門櫓を持つ。
伏見城から移築したとの伝承はウソらしい。
1663(寛文3)年頃築。高麗門、脇戸付櫓門から成り。井伊直弼暗殺で有名。なお、写真反対側は警視庁。
名前の由来は、門前に服部半蔵の屋敷があったからといわれる。なお、半蔵門は第二次世界大戦で焼失し、現在の高麗門は和田倉門から移築。
江戸城は千鳥ヶ淵などが桜の名所となっている。
本丸北の門。年始の宮中参賀では出口専用となる。
本丸北の門。江戸城天守台などを見学するさい、北からの出入り口はここからとなる
警備の詰所である番所の1つで、中之門そばに設置。他の番所よりも位が高い与力、同心によって警護されていた
本丸と二の丸につながる大手三之門そばに設置された番所。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組などが詰め、各組には100人ずつ同心が配属。
同心が詰め、登城する大名をチェックしていた。なお、番所は奥に行くほど位の高い人々が警備。
木橋が印象的な門。枡形の門形式と共に、かつての雰囲気を良く伝えている。
北の丸北端に位置する門で、この付近に田安家の屋敷が設置された。なお、門は上の櫓部分は関東大震災で崩壊し、戦後に復元されたもの。
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