室町時代の永享年間(1429~40年)、常陸守護職若泉(今泉)三郎が築城したのが始まり。戦国時代には小田氏の部将である菅谷氏が支配した後、豊臣秀吉が小田原の後北条氏を下すと、北条氏に味方した小田氏、菅谷氏は滅亡し、土浦城は徳川家康の次男・結城秀康が入城しました。
関ヶ原の戦いの後、城主は松平(藤井)氏、西尾氏、朽木氏、土屋氏、松平(大河内)氏と変わり、土屋政直が再び入城すると、以後明治維新に至るまで土屋氏9万5000石の居城となります。なお歴代藩主のうち、土屋政直は、徳川綱吉、家宣、家継、吉宗4代の将軍に仕え、赤穂浪士の処分を決定した老中です。
明治維新後は、本丸と二の丸が公園として保存され、太鼓櫓門(やぐらもん)が、関東唯一の現存江戸時代前期の建造物として残るほか、霞門、南東側に移築された高麗門があります。また、1990(平成2)年に西櫓が保管されていた古材を用いて復元。さらに、1998(平成10)年に東櫓が木造で復元されています。
ちなみに、土浦は、霞ヶ浦と、周囲の川による氾濫が起こりやすいため、土浦城もよく、川の中に孤立することがあったらしく、その姿から「亀城」と呼ばれるようになり、今もその愛称で親しまれています。
(写真&解説:裏辺金好)
풍경
1656(明暦2)年築。近年、東櫓との間の土塀が復元されています。
江戸時代末期の建築で、元々は搦手門東付近にあった高麗門形式の建物。
明治維新後、移築を繰り返し、1981(昭和56)年に二之丸二之門跡に移築。
1950(昭和25)年の台風で被害を受け、解体されるまで現存。1990(平成2)年に、ついに復元されました。
明治初期に撮影された古写真を元に、1998(平成10)年に復元。
霞門は本丸の裏門にあり、東櫓はここを守備する役割がありました。
周辺では城下町の風情を偲ばせる建物が残り、整備されています。
JohnMcCabe,Piano
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