KawagoeCastle
西武新宿線本川越駅よりバス
1457(長禄元)年、上杉持朝の命によって、家臣の太田道真・道灌親子が築城したといわれています。また、この近くで行われた河越夜戦は、戦国時代の戦の中でも激戦として名高いもの。北条氏康VS上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏連合軍の戦いで、北条氏康が見事に勝利し、関東の覇者となる足がかりを作り上げました。
*中世は河越、近世は川越と書かれるのが一般的です。
その北条氏が豊臣秀吉の小田原攻めで降伏し、代わって徳川家康が関東へ入封すると、その本拠である江戸の北の守りとして川越は重要視され、酒井重忠を最初として、堀田正盛、松平信綱、柳沢吉保、秋元喬知、松平朝矩など幕府の重職を務める家柄の、有力な譜代大名や親藩が次々と配属されました。
残念ながら明治時代になって川越城は解体され、遺構の大半は失われました。
しかし、全国的にも貴重な例である本丸御殿の一部が現存し、県指定有形文化財に指定。これは1848(嘉永元)年、藩主が松平斉典(なりつね)の時に建てられたもので、明治維新後は玄関、大広間が入間郡役所や武道の練習場(初雁武徳殿)などに転用。1967(昭和42)年に解体復元され、保存措置が講じられました。
さらに家老詰所は上福岡市(現、ふじみ野市)の民家に移築されていたのを1988(昭和63)年に本丸御殿内へ再度移築したもの。往時の場所とは多少異なり、他の建物からは独立して土塀に囲まれていたそうです。
なお、天守は築かれず、富士見櫓がその代用的存在であったといわれていますが、近年発見された図面によると二層であり、小さなものであったようです。
今や本丸周辺ぐらいにしか遺構はありませんが、かつてはこのように壮大な規模でした。
石垣があるわけでもなく、今やただの樹木に覆われた丘という感じです。
貴重な現存例ですが、往時と比較すると敷地面積にして8分の1、建坪6分の1。当時の壮大さはいかに?
現存する部分は非常に少ないことがわかります。絵図の上が家老屋敷で、今は残存する本丸御殿に隣接。
現存する部分はこのような部屋割りになっています。
三十六畳にもなる大きな部屋。
幕末の江戸湾警備を討議する風景を再現。
川越藩は当時、相模国にも領地を持っていたため、沿岸警備が命令されました。
川越城の二の丸跡に建設されたもの。川越城と城下町の復元ジオラマなど必見。